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2015年 2月 14日 長戸の徒然なる雑多な考察たち① 「どうして学ぶの?」
どうも~長戸です!!
今日からスタートいたしました、長戸担任助手シリーズ「長戸の徒然なる雑多な考察たち」!
高円寺校の担任助手の一員として、このブログを盛り上げていきたいと思います!
このシリーズは、僕が日頃思い考えることをみなさんに発信していきたい!という主旨になっています。
みなさんに注意して欲しいのは、僕が書いていくことは、基本的には僕の意見である、ということです。
ですので、僕の意見を丸呑みすることなく、批判的に(critically)読んでいって欲しいと思います。
「お前の話は偏りすぎだ」と思ったら、遠慮なく僕にぶつけてください!
それでは、初めて行きましょ!
第一弾は、「どうして学ぶの?」です。
そのために、まず「花子とアン」をとりあげようと思います。連ドラをみた人も多いのではないでしょうか?
さて、主人公の花子と、その妹のかよの違いを考えてみましょう。
2人はどのような職業についたでしょうか?
花子は翻訳者になったのに対して、かよは最初は製糸工場の女工、そのあとはカフェの女給になっています。
2人とも、貧しい農家出身です。
では、2人の違いを分けたものはなんでしょうか?
それは学校教育を受けたか否かです。
花子は東京の学校に進学したのに対して、かよは教育を受けられませんでした。
花子はそこで英語を学んだからこそ、翻訳者としての進路が開けたのです。
一方、かよは教育を受けられていなかったために、専門職につく進路はそもそもになかったわけです。
考えてみてください。
かよは「翻訳者」になる未来をもっていたでしょうか?
いや、かよは英語を学んでいない時点で翻訳者になる未来は最初から閉ざされていました。
選べる未来の選択肢は限られていたのです。
これが、僕の考える学ぶ意義です。学ぶことは未来の可能性を広げることにつながります。
ですから、たくさんの人生の生き方の選択肢を得ることになります。
この選択肢のことを、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センという人は、”capability”と呼んでいます。
ケイパビリティーは様々な訳し方がありますが、大江健三郎が言う「生き方の幅」は僕が一番好きな訳です。
学ぶ事で自分の「生き方の幅」が広がる。とても素敵なことですね。
それでは、「長戸の徒然なる雑多な考察たち」をお送りしました!